父親について
93歳(6月で94歳になります!)の父親について記したいと思います。
父の名前は大森照聖と言って、名前はお坊様の名前です。元々の名前は聖之です。
うちの父親は母親に比べてずっと壮絶な人生だと思います。
ここでは私が父親から今まで聴いていることを紹介したいと思います。
父は、東京の下町で生まれました。上にはお姉さん2人、お兄さん2人いました。下には弟さんが1人いらっしゃり、私も実際にお会いしたことがありますが、実はさらに2人弟か妹がいたそうですが、幼い頃に病死されたそうです。
家はとても貧しかったそうです。
というのは、父の父、が大酒飲みで定職についていなかったそうです。家計は父の母がいろいろな仕事をして支えていたようです。
(父の父母は早く亡くなったので私は一度も逢ったことがありません)
貧しさ故にどうなったかと言えば、一番上のお姉さんはその当時の言い方だと、”身売り”で芸者として外に出されたそうです。
もう一人のお姉さんとお兄さんはどうなったのかわかりませんが、うちの父親は8歳か9歳の頃に、やはりいわば身売り?なのでしょうか・・・茨城のお寺に小僧として出されることになりました。
寺で厳しい修行をした後、どういう経緯かは今度また聞いてみますが、中学の頃からは千葉県の銚子に移り、銚子中学・高校を卒業しました。
その後はお坊さんの学校でも有名な東京の豊島区にある大正大学に苦学の上、入学したようです。
入学した頃が多分太平洋戦争の末期で、徴兵寸前の年齢でしたが、兵隊にはならず、都内でなんらか戦争のための動員があったのだと思います。空襲も経験し、爆弾や焼夷弾で亡くなった一般の方も沢山目にしたと何度か聴きました。
戦後、元々真言宗の茨城のお寺に小僧で行っていたこともあり、大学生の頃から東京文京区にある真言宗のお寺、護国寺に顔を出すことになりました。お寺の手伝いでしょうか?
ちょうどその護国寺にあったのが子供たちの合唱団で有名だった音羽ゆりかご会で、何かの折りに、手伝いをするようになったみたいです。
そうしたら、習ってもいないのに(ひょっとして音羽ゆりかご会主宰の海沼実さんから少しは習ったのかもしれませんが・・・)ピアノ演奏を覚え、合唱団の伴奏もすることになり、なんとお坊さんになるはずが音羽ゆりかご会に勤めることになりました。
家には川田正子さんや、海沼実さんと一緒に父親が映っている写真があります・・・
音羽ゆりかご会の仕事の前後には、学校の先生=歴史と習字の先生も行ったり、カナリヤを飼っていたので、カナリヤの店も行いました。
その後母と結婚し、兄が生まれ、さらに私が生まれる頃には、音羽ゆりかご会の海沼実さんとも色々諍い?があり、辞めることになったと聴いています。
その後、母の兄が勤めていた洋酒の会社に勤めました。さらに家ではピアノ教室も行って子供たちにバイエルとかを教えていました。私も小学校のときかな?少し教わりました。
数年後には、どういう経緯かは忘れましたが洋酒会社を辞めて木材会社に勤め、さらには別の建築会社にも勤め、その後半分独立する形で大手某電力会社の様々な建築関係を請け負うことになりました。その仕事により、大森家も少しずつ豊かになってきました。
昭和40年代~60年代の高度経済成長時代・オイルショックを経た低成長時代も業績は順調で、父は70歳までその仕事を行いました。おかげさまで、私は貧乏生活ということは経験しないで子供~大学卒業まで過ごすことが出来ました。
1997年、70歳で建築業は引退しました。
その後さらなる人生がありました。
なんと、元々なるはずだったお坊さんに戻ろうと言うことで、(千葉県の大正大学のときの同級生で大きな寺の住職にも相談したのでしょう・・・)
京都の智積院で、お坊さんのための修行を改めて行い、2年間修行した後、千葉にある一つの寺の住職になりました!
70歳からの再出発でした。
住職と言っても通い住職で文京区にある家から、寺で葬儀・法要などがあるときに出かけていき、何日かは寺に泊まることもありました。
そしてお寺の住職の仕事は90歳まで続けました。
3年前の90歳のときに、住職引退して、今は完全に隠居という状況です。
父親は、94才の今は歩くのとかは遅くなりましたが、買い物行ったりしますし、また頭はしっかりしています。
家では自分でも料理を作ったり、日曜大工のようなことをやったりしています。
コロナの前はカラオケクラブ?にも行ってました。 メンバーの中で最年長だったようです。コロナ落ち着いたらまた行くつもりなのでしょう・・
父親孝行という意味では、20年前、米国駐在時に2回米国に遊びに来て貰いました。
飛行機は1回はファーストクラスに乗って貰いました(マイレージのおかげです!)
そして一緒にグランドキャニオンやナイアガラの滝に行ったり、マンハッタンやフィラデルフィアに遊びに行ったりしました。
そして、米国から日本帰任後も、海外旅行に一緒に良く行きました。2003年~2011年の間に、米国2回、オーストラリア1回、シンガポール1回、マレーシア1回、ベトナム1回、
台湾1回、香港・マカオ・深セン1回、上海・杭州1回 行きました。
最後に一緒に行った海外旅行が2011年秋の米国サンフランシスコ・ヨセミテでした。
84歳のときです。
小さい頃から私は、良く父親似と言われていましたが、もし似たところがあるとしたら
いろいろなことに精力的にチャレンジして、ある程度行えるようになるというところと、
声が大きいところでしょうか!?
ただし私は父親のように字はうまくありませんし、モノも器用には作れません。
父親のバイタリティーはやはり9歳くらいで家から出されてお寺の小僧として苦労して仕事と勉学を行ったというところが原点になっていると思います。
そして、いろいろな仕事をした上で、最終的に、原点あったお寺の住職になるということを実現し、20年間それを勤めたと言うことが素晴らしいと思います。
それも70歳から再修行したというのは、なかなかマネが出来ることでは無いと思います。
私は父親のように今後70才になってお寺の修行が出来るとはとても思えないのですが、父親を見習って、少なくとも90歳までは世の中の人に役立つ仕事をしていきたいと思います。
父には母と共に、100歳を目指して長生きして欲しいと思っています。
なお、父には、ここに書いたような話をまた語って貰い、それを動画で撮影して
皆様にも観て貰うことを計画しています!
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