PHS(パーソナルハンディホンシステム)開発の思い出(前編)
目次
PHSとはどんなものだったか?
1991年の中頃から第二世代コードレス電話の開発プロジェクトに参加し、その年の10月か11月には、新横浜の一つのビルの中にプロジェクトメンバーが集結しました。実際には、第二世代コードレス電話という名前よりもパーソナルハンディホンと言われることのほうが多くなったと思います。=Personal Handy Phoneの略で、PHPと言ってました。
しかし、そのPHPという略称が、偶然ですが松下電器産業の創業者である松下幸之助が太平洋戦争後に始めた社会貢献活動であり、月刊誌の名前でもあるPHPと一緒であることが主原因だと思いますが、途中からパーソナルハンディホンシステム=Personal Handy phone Systemの略でPHSとなりました。
PHSの開発プロジェクト
1991年末から1992年初めはPHSの実用性を確認するための大型のラックによる実験機を作って、他社の基地局などと相互接続をするという実験を行いました。その後1992年から約2年かけて、携帯電話やコードレス電話機器にも近いサイズの小さい端末を作ろうということになりました。
その端末は、私たちの中ではPX04と言ってましたが、当時としては比較的大きな液晶(それでも白黒でした)、ソフトウエアが簡単に書き換えられるようにフラッシュROM搭載、そして電池は当時はニッカド電池やニッケル水素電池が主流だったところに、新たに脚光を浴びていたリチウムイオン電池を採用しました。
この当時、フラッシュROM、リチウムイオン電池を搭載した商品は珍しかったと思います。
PHS開発プロジェクトでの私の役割
私はこのPX04と、もう少し図体を大きくして、家庭用のコードレス電話の恰好をしていたPX03という2つの子機のソフトウエア開発リーダーでした。
間違いなく、この1992年から1994年に渡るPHSの子機開発が私の会社人生の中でも最も長時間仕事をした時期でした。今の働き方改革とは真逆でした。
特に1993年の秋から1994年の初め当たりが最も忙しかったです。このPHSの子機、特にPX04という子機は、PHSの特長ともいわれていた機能を果たしていました。それは1台の子機が家庭用コードレス電話の子機にもなるし、事業所用コードレス電話の子機にもなるし、外では簡易型携帯電話機の端末として使われるし、子機同士で直接通信(トランシーバと呼んでました)も出来るという画期的な物でした。(現在でもそのような電話機はありません)
会社で気を失いかけるほどの激務
従ってある程度ソフトウエアが完成した後も、家庭用コードレス電話としてのテスト、事業所用コードレス電話としてのテスト、簡易型携帯電話機としてのテスト、トランシーバとしてのテストを同時並行して行っていました。かつテストにおいて不具合が出たらその原因をメンバーと共に調べるという仕事を毎日夜中の2時くらいまで、かつ土日も含めて行っており、ついに1994年の2月には会社内で気を失いかけるというところまで経験しました。
しかしながら、この大変な激務の結果、1993年秋のPHS札幌実験は、松下通信工業が全ての端末メーカの中では一番評判が良く、かつ1994年4月には、業界初のデジタルコードレス電話PX1という名前で、世の中に商品を出すことが出来ました。事業所用コードレス電話も同時期だったと思います。
PHSで苦労した経験が今でも役立ってます
上記毎日のように不具合の問題解決というのが殆ど無線通信に関するものであり、PHSの前のコードレス電話で経験したことがかなり役立ちました。かつPHSの標準規格であるRCRSTD-28というのを理解しようと必死に読み込んでいたものでした。
その結果、PHSの通信プロトコルに関しては会社の中で詳しいほうになったと思います。その後のVoIPプロジェクトやWi-Fiプロジェクト更には現在のいくつかの会社の支援プロジェクトでの支援などのベースになったのがPHSの開発で苦労した経験だったと思います。
PHSプロジェクトから得た教訓
・何事も突き詰めればある程度その分野でのプロフェッショナルになれる。
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