VoIPの開発プロジェクトの思い出
目次
VoIPプロジェクトは米国で行われました
今から約20年前の2000年1月にVoIPの開発プロジェクトが本格的に米国ニュージャージ州のプリンストン大学近くのパナソニック研究所の一角を借りてスタートしました。プロジェクト名はIPTSと言い、その当時最先端だったVoIPの技術を用いて新しいコミュニケーションシステムを作るというプロジェクトでした。
平たく申し上げるとIP-PBX(構内交換機)のようなものを作ろうとしてましたが、私たちは出来る限りPBXという名前は使わずに最先端のコミュニケーションシステムを目指していました。メンバーは元々米国の研究所のほうに在籍していたメンバー10数名と日本からの駐在者3名くらいでスタートしました。
私はIP電話担当ということで赴任・駐在したのですが、これはよく日本側と駐在側で起こりがちのことなのですが、IP電話の開発は日本中心に行うことになり、私は一瞬失業してしまいました。
ただし、その後上記コミュニケーションシステムのためのアプリケーションレベルでの通信仕様を策定するという仕事を行うことになり、非常にやりがいをもって仕事をしていました。
PHSでの通信プロトコルの知識がVoIPにも役立ちました
通信方式は異なりますが、1990年代にPHSを用いた家庭用コードレス電話とか事業省コードレス電話の通信仕様=通信プロトコルの策定にも関わっていましたので、それからの類推で、それほど苦労することなくいわばIP-PBXのための通信方式をメンバーと一緒になって策定していきました。
例えば、保留とか転送とか、通話中の別の着信とか・・・そういう通信方式を策定していったのです。
プロジェクトは、多国籍集団でした
実際のソフトウエア実装は、現地の優秀なソフトウエア技術者に行ってもらいました。学歴だけで決められるわけではありませんが、ほとんどがP.H.D.とかを取得した優秀な技術者でした。初めは10数人でしたが、途中からは契約社員も沢山雇って、最盛期には50名くらいのメンバーが参加していました。
50名中約35名が中国・台湾の人、3-4名が韓国の人、とインドの人。1名トルコの人、1名メキシコの人、日本からの駐在者が数名という形で開発を行っていました。
日本からの駐在者は”アドバイザー”
ある程度ソフトウエアが出来上がってからの私の役割は、システムテストのリーダーのようなことを行っていました。リーダーといっても、これもよくありがちなのですが、日本からの駐在者はともすればアドバイザーというような形で、実際に現地の人を管理監督しているかというと微妙な立場でした。
ただし、今考えると、シニアプロジェクトマネージャという役職も与えられており、技術的には色々アドバイスをしたり、発言力がある程度ある立場であり、非常に貴重な経験をっせてもらいました。
しかしながら、残念なことにこのプロジェクトは2002年の初めに中断することになりました。幾つか理由はあったと思いますが、一番の理由としては、
・作ったシステムが売れるものにならない(仕様の面と完成度の面両方で)という判断でした。
ずっとこの開発プロジェクトに関わってきた身としては、確かに完成度の面で、色々と不具合があったことは事実ですが、最後のほうは、かなり完成度もあがり、私は商品になるものだと思っていました。
プロジェクトにおいてはコミュニケーションの問題が重要
今考えても、このプロジェクトは開発設計の問題よりも、日本と米国の間のコミュニケーションの問題が大きかったと思います。開発設計に置いて一番大事なのはコミュニケーション・人間関係だというのを痛感したのがこのプロジェクトでした。
VoIPプロジェクトの開発経験で学んだこと。
・海外プロジェクトにおける現地と日本のコミュニケーションの大切さ |
・新規事業を行う上でも使う人の立場に立った商品、システムを作ることが大切 |
・海外においては、やはり英語でのコミュニケーションが出来たほうが良い |
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